葬儀社天国社によるスタッフブログ
スティーブ・ジョブズ追悼
2011.11.14
お葬式の天国社(天国日記)
スティーブ・ジョブズの妹が亡き兄にあてた弔辞・・・スティーブの心意気が伝わりますのでご紹介します。長くなりますがご容赦下さい。
妹からスティーブ・ジョブスへの弔辞
A Sister’s Eulogy for Steve Jobs
モナ・シンプソン (Mona Simpson)
2011年10月30日
私は母子家庭の一人っ子として育てられました。
貧しかったので、そして父はシリアからの移民だと教えられていたので、
父については、オマル・シャリフのような人ではないかと想像していました。
裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。
のちに面会したとき、私は、父は理想に燃える革命家で、アラブの新世界を導く人だったのだと、
だから転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。
私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。
二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。
25歳になってその人に出会いました。
それが兄でした。
私は当時、ニューヨークで処女作を書こうとしていました。
他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌の仕事をしていました。
ある日、弁護士が私に電話をかけてきました。
その弁護士は、上司に健康保険をねだるような、カリフォルニアの中流階級の娘である私に、
「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。
同僚編集者たちは騒然となりました。
時は1985年、そこは新興文芸雑誌の事務所、
それでも私は大好きなディケンズの小説の筋書きに放り込まれたようでした。
弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。
一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ。
私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズの後継者、
何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。
初めて会ったとき、スティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。
オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブかユダヤの顔立ちでした。
私たちは長い散歩をしました。
偶然にも二人ともそうするのが好きでした。
何を話したのかはあまり覚えていませんが、
とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています。
彼はコンピュータ企業で働いていると言いました。
コンピュータのことはあまり知りませんでした。
私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。
コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。
Cromemcoという名前でした。
スティーブは、そのときまで待ったのは良かったと言いました。
彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。
これから、スティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います。
三つの期間、合計27年間に渡って、私は彼を知っています。
期間を区切るのは年数ではなく、生き様です。
彼の充実した人生。
彼の病気。
彼の死。
スティーブは自分の愛するものを仕事にしました。
彼は頑張って働きました。
毎日働きました。
とても単純ですが、本当のことです。
彼は散漫の対極のような人でした。
彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。
スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。
彼はAppleを追い出されて、つらい時期を過ごしました。
彼はシリコンバレーの指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。
スティーブはそこに招待されなかったのです。
彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。
スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。
イノベーターにしては珍しく、スティーブは物事に忠実でした。
シャツが気に入れば、同じものを百枚注文しました。
パロアルトの家には、黒いコットンのタートルネックが、
おそらくこの教会にいる全員分はあると思います。
彼は流行や小道具を好みませんでした。
自分と同世代の人が好きでした。
彼の美学はこういう言葉を思い起こさせます。
「ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの。芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの」
スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。
彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。
パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーで NeXT に通い、
あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。
それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、
ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。
愛について話す時間の長さにかけては、スティーブは女の子並でした。
愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。
彼はいつも、一緒に働く人々の恋愛生活を気にしていました。
女性が気に入るかもしれない男性を見つけると、
「独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。
彼がローリンと出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。
「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」
リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族に愛情を注ぎ続けました。
彼はどの子にとっても実の父親でした。
リサの彼氏と、エリンの旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。
リードの卒業パーティに出席した人はみな、リードとスティーブのゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。
ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。
愛はいつでも、どこでも発露するものだと彼は信じていました。
スティーブは皮肉や冷笑や悲観とは無縁でした。
私は今も、そのことを学ぼうとしています。
スティーブは若くして成功した人でした。
彼はそのことで孤独を感じていました。
私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。
ロスアルトスから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。
二人にとって、リサとリードとエリンとイヴを普通の子供として育てることは重要でした。
彼らの家には押し付けがましい美術品などはありませんでした。
スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、
夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。
一種類の野菜をたくさん。
一種類だけです。
ブロッコリー。
旬の野菜。
簡単な調理。
とれたてのハーブなど、適切なものを適切なだけ。
若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。
ジーンズを履いて待っていてくれました。
家族が会社に電話をしたときには、秘書のリネッタが
「お父さんは会議中ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。
リードが毎年ハロウィンに魔女のかっこうをしたがったときには、
スティーブ、ローリン、エリン、イヴも魔女になりました。
彼らはキッチンの改装に取りかかったことがあります。
何年もかかりました。
そのあいだガレージでホットプレートを使って料理をしました。
同じころ建設されていた Pixar のビルはその半分の時間で完成しました。
パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。
バスルームは古いままでした。
ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。
スティーブは目利きでしたから。
彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。
何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。
パロアルトの自転車屋に行って店内を眺めて、
その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。
そして実際、買いました。
スティーブは謙虚でした。
スティーブは学びつづけるのが好きでした。
彼はある日、育ち方が違っていれば自分は数学者になっていたかもしれない、と言いました。
彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードのキャンパスを歩くのが好きでした。
最後の数年間、彼はマーク・ロスコの絵画の本を研究していました。
それまで知らなかった美術家を知ってから、
未来のAppleのキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。
スティーブは物好きなところがありました。
イギリスと中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッド・オースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?
彼はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。
たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、
きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います。
彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム。
彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、
ニューヨークタイムズを開いて会社の特許の特集をみたとき、
こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。
四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブは楽しい人生を送りました。
彼は幸福を大事にしました。
そしてスティーブが病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。
それまで彼は、パリを散歩するのが好きでした。
彼は京都で手打ちそばを見つけました。
スキーでなめらかに滑降しました。
ドタドタとクロスカントリーをしました。
もうできませんでした。
最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。
ですが、私が驚くと同時に彼の病気から学んだことは、
多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。
兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。
彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。
メンフィス病院の廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、
そこで座って一休みして、
引き返してまた歩きました。
彼は毎日歩みを数え、毎日より遠くまで進みました。
ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。
「あなたならできる」と彼女が言うと、
彼は目を見開いて、唇を引き締めました。
彼は挑戦しました。
いつもいつも挑戦しました。
その試みの中心には愛がありました。
彼はとても直情的な人でした。
その恐ろしい時節、私は、スティーブが自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。
目標をさだめていたのです。
息子リードの高校卒業、エリンの京都旅行、
家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。
病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。
看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。
トレイシー、アルチュロ、エラムです。
スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき、医師はすべてを、氷をも禁じました。
私たちは標準的なICUユニットにいました。
スティーブは普段割り込んだり自分の名前にものを言わせたりすることを嫌っていましたが、
このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。
「これが特別治療だよ」と私は伝えました。
彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。
挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。
そしてiPadを病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。
新しい液晶とX線装置を設計しました。
特別さが足りないと言ってユニットをもう一度描き直しました。
妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。
一生のお願いだから、頼む、と彼はメモ帳に書きました。
こちらを見上げて、お願いだから、と。
彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。
私たちは自分が何年生きられるか知りません。
スティーブが健康だったころには、その最後の数年にも、
彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。
オランダの造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。
三人の娘はまだ結婚していませんし、二人はまだ女の子です。
私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。
私たちはみな、最後には、途中で死にます。
物語の途中で。
たくさんの物語の途中で。
ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、
スティーブの死は私たちにとって突然でした。
二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。
どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです。
火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。
声には熱と愛情がこもっていました。
同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまったかのようでした。
申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、
私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。
彼がさよならを言おうとしたとき私は引き止めました。
「待って。行きます。空港にタクシーで行くから。きっと着くから」
「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」
着いたとき、彼はローリンと冗談を言い合っていました。
毎日一緒に暮らしてきた夫婦のように。
視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。
昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。
そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。
呼吸が変わりました。
つらそうに、やっとの思いで息をしていました。
彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。
これが私が学んだことです。
彼はこのときにも努力していたのです。
死がスティーブに訪れたのではありません。
彼が死を成し遂げたのです。
彼はさよならを言い、すまないと言いました。
約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。
そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。
フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。
彼はその夜を越しました。
ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。
彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。
やらなければならないことでした。
彼はいまだに、厳しいハンサムな顔立ちをしていました。
絶対主義でロマンチストの顔立ちをしていました。
その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。
山を登っているようでした。
その意志、その使命感、その強さと同時に、
そこにはスティーブの不思議を求める心、
美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。
その数時間前に出た言葉が、スティーブの最期の言葉になりました。
それは三度繰り返す単音節の言葉でした。
船出の前、
彼は妹のパティを見て、
子供たちをゆっくり見て、
人生の伴侶ローリンを見て、
そして皆の肩の向こうを見ました。
スティーブの最期の言葉は次の通りです。
OH WOW. OH WOW. OH WOW.
以上Macユーザーの福岡会館執行でした。
妹からスティーブ・ジョブスへの弔辞
A Sister’s Eulogy for Steve Jobs
モナ・シンプソン (Mona Simpson)
2011年10月30日
私は母子家庭の一人っ子として育てられました。
貧しかったので、そして父はシリアからの移民だと教えられていたので、
父については、オマル・シャリフのような人ではないかと想像していました。
裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。
のちに面会したとき、私は、父は理想に燃える革命家で、アラブの新世界を導く人だったのだと、
だから転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。
私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。
二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。
25歳になってその人に出会いました。
それが兄でした。
私は当時、ニューヨークで処女作を書こうとしていました。
他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌の仕事をしていました。
ある日、弁護士が私に電話をかけてきました。
その弁護士は、上司に健康保険をねだるような、カリフォルニアの中流階級の娘である私に、
「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。
同僚編集者たちは騒然となりました。
時は1985年、そこは新興文芸雑誌の事務所、
それでも私は大好きなディケンズの小説の筋書きに放り込まれたようでした。
弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。
一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ。
私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズの後継者、
何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。
初めて会ったとき、スティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。
オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブかユダヤの顔立ちでした。
私たちは長い散歩をしました。
偶然にも二人ともそうするのが好きでした。
何を話したのかはあまり覚えていませんが、
とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています。
彼はコンピュータ企業で働いていると言いました。
コンピュータのことはあまり知りませんでした。
私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。
コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。
Cromemcoという名前でした。
スティーブは、そのときまで待ったのは良かったと言いました。
彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。
これから、スティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います。
三つの期間、合計27年間に渡って、私は彼を知っています。
期間を区切るのは年数ではなく、生き様です。
彼の充実した人生。
彼の病気。
彼の死。
スティーブは自分の愛するものを仕事にしました。
彼は頑張って働きました。
毎日働きました。
とても単純ですが、本当のことです。
彼は散漫の対極のような人でした。
彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。
スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。
彼はAppleを追い出されて、つらい時期を過ごしました。
彼はシリコンバレーの指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。
スティーブはそこに招待されなかったのです。
彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。
スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。
イノベーターにしては珍しく、スティーブは物事に忠実でした。
シャツが気に入れば、同じものを百枚注文しました。
パロアルトの家には、黒いコットンのタートルネックが、
おそらくこの教会にいる全員分はあると思います。
彼は流行や小道具を好みませんでした。
自分と同世代の人が好きでした。
彼の美学はこういう言葉を思い起こさせます。
「ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの。芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの」
スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。
彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。
パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーで NeXT に通い、
あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。
それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、
ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。
愛について話す時間の長さにかけては、スティーブは女の子並でした。
愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。
彼はいつも、一緒に働く人々の恋愛生活を気にしていました。
女性が気に入るかもしれない男性を見つけると、
「独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。
彼がローリンと出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。
「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」
リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族に愛情を注ぎ続けました。
彼はどの子にとっても実の父親でした。
リサの彼氏と、エリンの旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。
リードの卒業パーティに出席した人はみな、リードとスティーブのゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。
ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。
愛はいつでも、どこでも発露するものだと彼は信じていました。
スティーブは皮肉や冷笑や悲観とは無縁でした。
私は今も、そのことを学ぼうとしています。
スティーブは若くして成功した人でした。
彼はそのことで孤独を感じていました。
私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。
ロスアルトスから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。
二人にとって、リサとリードとエリンとイヴを普通の子供として育てることは重要でした。
彼らの家には押し付けがましい美術品などはありませんでした。
スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、
夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。
一種類の野菜をたくさん。
一種類だけです。
ブロッコリー。
旬の野菜。
簡単な調理。
とれたてのハーブなど、適切なものを適切なだけ。
若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。
ジーンズを履いて待っていてくれました。
家族が会社に電話をしたときには、秘書のリネッタが
「お父さんは会議中ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。
リードが毎年ハロウィンに魔女のかっこうをしたがったときには、
スティーブ、ローリン、エリン、イヴも魔女になりました。
彼らはキッチンの改装に取りかかったことがあります。
何年もかかりました。
そのあいだガレージでホットプレートを使って料理をしました。
同じころ建設されていた Pixar のビルはその半分の時間で完成しました。
パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。
バスルームは古いままでした。
ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。
スティーブは目利きでしたから。
彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。
何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。
パロアルトの自転車屋に行って店内を眺めて、
その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。
そして実際、買いました。
スティーブは謙虚でした。
スティーブは学びつづけるのが好きでした。
彼はある日、育ち方が違っていれば自分は数学者になっていたかもしれない、と言いました。
彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードのキャンパスを歩くのが好きでした。
最後の数年間、彼はマーク・ロスコの絵画の本を研究していました。
それまで知らなかった美術家を知ってから、
未来のAppleのキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。
スティーブは物好きなところがありました。
イギリスと中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッド・オースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?
彼はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。
たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、
きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います。
彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム。
彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、
ニューヨークタイムズを開いて会社の特許の特集をみたとき、
こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。
四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブは楽しい人生を送りました。
彼は幸福を大事にしました。
そしてスティーブが病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。
それまで彼は、パリを散歩するのが好きでした。
彼は京都で手打ちそばを見つけました。
スキーでなめらかに滑降しました。
ドタドタとクロスカントリーをしました。
もうできませんでした。
最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。
ですが、私が驚くと同時に彼の病気から学んだことは、
多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。
兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。
彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。
メンフィス病院の廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、
そこで座って一休みして、
引き返してまた歩きました。
彼は毎日歩みを数え、毎日より遠くまで進みました。
ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。
「あなたならできる」と彼女が言うと、
彼は目を見開いて、唇を引き締めました。
彼は挑戦しました。
いつもいつも挑戦しました。
その試みの中心には愛がありました。
彼はとても直情的な人でした。
その恐ろしい時節、私は、スティーブが自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。
目標をさだめていたのです。
息子リードの高校卒業、エリンの京都旅行、
家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。
病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。
看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。
トレイシー、アルチュロ、エラムです。
スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき、医師はすべてを、氷をも禁じました。
私たちは標準的なICUユニットにいました。
スティーブは普段割り込んだり自分の名前にものを言わせたりすることを嫌っていましたが、
このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。
「これが特別治療だよ」と私は伝えました。
彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。
挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。
そしてiPadを病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。
新しい液晶とX線装置を設計しました。
特別さが足りないと言ってユニットをもう一度描き直しました。
妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。
一生のお願いだから、頼む、と彼はメモ帳に書きました。
こちらを見上げて、お願いだから、と。
彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。
私たちは自分が何年生きられるか知りません。
スティーブが健康だったころには、その最後の数年にも、
彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。
オランダの造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。
三人の娘はまだ結婚していませんし、二人はまだ女の子です。
私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。
私たちはみな、最後には、途中で死にます。
物語の途中で。
たくさんの物語の途中で。
ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、
スティーブの死は私たちにとって突然でした。
二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。
どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです。
火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。
声には熱と愛情がこもっていました。
同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまったかのようでした。
申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、
私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。
彼がさよならを言おうとしたとき私は引き止めました。
「待って。行きます。空港にタクシーで行くから。きっと着くから」
「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」
着いたとき、彼はローリンと冗談を言い合っていました。
毎日一緒に暮らしてきた夫婦のように。
視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。
昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。
そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。
呼吸が変わりました。
つらそうに、やっとの思いで息をしていました。
彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。
これが私が学んだことです。
彼はこのときにも努力していたのです。
死がスティーブに訪れたのではありません。
彼が死を成し遂げたのです。
彼はさよならを言い、すまないと言いました。
約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。
そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。
フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。
彼はその夜を越しました。
ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。
彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。
やらなければならないことでした。
彼はいまだに、厳しいハンサムな顔立ちをしていました。
絶対主義でロマンチストの顔立ちをしていました。
その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。
山を登っているようでした。
その意志、その使命感、その強さと同時に、
そこにはスティーブの不思議を求める心、
美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。
その数時間前に出た言葉が、スティーブの最期の言葉になりました。
それは三度繰り返す単音節の言葉でした。
船出の前、
彼は妹のパティを見て、
子供たちをゆっくり見て、
人生の伴侶ローリンを見て、
そして皆の肩の向こうを見ました。
スティーブの最期の言葉は次の通りです。
OH WOW. OH WOW. OH WOW.
以上Macユーザーの福岡会館執行でした。