葬儀社天国社によるスタッフブログ

ある選手のお話です。
素晴らしい選手です。私執行も好きな選手の1人です。

1997年、サッカー日本代表は、翌年に控えるワールドカップ本戦への出場を目指し、厳しい予選リーグを戦っていた。

しかし世界の壁は高く、日本は苦戦を強いられた。

そして迎えた10月11日。

ここで負ければ予選敗退が決定するという対ウズベキスタン戦の日。

チーム11人とファンの夢をつなぐことになる、一人の選手がピッチに立っていた。

ブラジルの多くの子どもがそうであるように、ワグネルもまた小学校に上がる頃にはプロのサッカー選手を夢見ていた。

しかし、夢は早くも絶たれてしまった。

父親が死んだのだ。

ワグネルは家族を助けるため、兄の働く靴工場へ11歳で勤めに出ることになった。

母が初めて買ってくれたプレゼントは、遊ぶためではない、通勤用の自転車だった。

それでもワグネルが、不満を口にすることはなかった。

そして彼は、近所の畑で拾ったオレンジで練習しながら、母親に笑顔で言った。

「ママ、見てて。

僕は絶対プロの選手になる。

そしてママに家をプレゼントするよ」

わが子の夢物語に苦笑いしつつ、母は生活を切り詰めてスパイクシューズを買い与え、こう言った。

「あなたのやりたいようにやればいいわ。

でもね、決してあきらめてはダメ。

あきらめずに続ければ、幸運は向こうからやってくるのよ」

彼は15歳で初めてプロテストに挑んだ。

結果は見事に合格。

しかしチームの示した契約内容は、とうていサッカーで生活できるような金額ではなかった。

その後も彼は働きながら、あちこちのプロテストに挑戦する。

しかし結果はついてこなかった。

「やっぱり、プロなんて無理なんじゃない?」

あきらめるなと言ったはずの母親が先に弱音を吐いた。

しかしワグネルは笑顔で答えた。

「大丈夫だよママ。

僕は必ずプロになるよ」

決してあきらめない彼に、ある日、幸運が訪れた。

名門「サンパウロFC」の入団テストに飛び入り参加したところ、300人以上の受験者から、わずか2名の合格者に選ばれたのだ。

「やったよ、ママ!僕はプロの選手になったよ!」

しかし、たくさんの名選手を抱えるこのチームでは、試合に出るチャンスすらほとんど与えられなかった。

彼は選手として活躍できる場を求め、異国の地、日本での挑戦を決意した。

目の当たりにした日本サッカー界のレベルは、ブラジルの草サッカーよりも観客の少ないスタジアムに象徴されていた。

そして、外国人ゆえの言葉の壁、文化の壁、偏見による差別が容赦なく彼に襲いかかった。

それでもサッカーに対する情熱は決して失わなかった彼が、グラウンドに姿を現さない日は一度もなかった。

やがて、彼の努力は徐々に実を結び始めた。

なんと、1992年、1995年、1996年とたて続けに得点王に輝いた。

そして1997年、ついにワールドカップ日本代表に選出されたのだ。

この間に長男も生まれ、幸せをかみしめ彼は喜びをこう語っている。

「代表入りのため帰化したわけではない、あくまでこの国で生まれた息子のためだ。

そして何より、僕のサッカーを日本が評価してくれたことがうれしい」

以後、彼は日の丸を背負って予選に挑むのだが、そのさなか、悲報が届いた。

最愛の母が母国ブラジルで急死したのだ。

しかし彼は自らの意志で帰国せず、戦い続けのだった。

そんな苦しい状況で挑んだのが、10月11日の対ウズベキスタン戦だったのだ。

試合は1点リードされたまま、残り数分というところまで進んでいた。

もうリーグ戦での敗退が決定的と誰もが思った。

ところが、間際で奇跡が起こった。

残りの時間2分になった時、ワグネルの全身全霊をかけた渾身のシュートが相手チームのゴールに突き刺さったのだ。

同点。

そして、日本代表は予選を突破。

本戦出場の夢をかなえたのだ。

サッカーファンなら、もうおわかりでしょう。

彼のブラジルの名前は「ワグネル・アウグスト・ロペス」

そして彼は、

「呂比須ワグナー」と呼ばれている。

ワグナーは涙を浮かべながら、少年時代からのことをこう語っている。

「今まで一度だって『だめだ』と思ったことなどないよ。

あきらめない気持ちが幸運を呼ぶと信じていたからね。

そしてその通りなっただけさ。そうママが言った通りにね」